雑感:オザケン

少し間が空いちゃいましたが。

小沢健二@神奈川県民ホール(5/20)
★★★★

まさか見ることになるとは思ってませんでしたが、幸運にも見ることができました、王子様の御帰還を。


まず誤解のないように書いておきますと、僕はヘビーなオザケンフォロワーかというとそういうわけでもなく。
一通り触れてはいましたしもちろんLifeあたりは当時買って聴き続けていましたけど。
たぶん同世代の♂でフリパを通ってない連中は大半そうなんじゃないすかね。
(復活劇前にたまーに聴いたりしていたのは「球体」と「環境学」だけというのは、やっぱり当時浸透しきっていなかった事のあらわれなのかもしれません)


まあそんなわけで、行く前はちょっとなんだか周りに申し訳ないような。それにどちらかというと不安感の方が大きかったわけです。

不安っていうのは、ブランクを経ての復活というのがけっこうスレスレだというのを何回かみてしまっているので。去年のユニコーンなんかは全員現役だったししっかり新作出した上だったので全然イタイ要素なんかなかったんだけど、(前も書いた気がするけど)ピクシーズなんかギターのヨレヨレ感が心底ドン引きさせる内容だったし、周りが当人たち以上に”復活”とか”伝説”とかに過剰反応してるケースってだいたい観なきゃよかったなんて印象をもってしまうんですよね。いつぞやにみた「ビーチボーイズ」という名のコピーバンドみたいに、メンバー達の想いなどハナから無視した懐メロ大会なんかみたくもないわけで。

んで結果から言うと完全にそういうのは杞憂でした。そう思わせた要素は以下3つ。

歌とギター。

もともとそんなに上手な印象はなかったけど、思ってたよりもはるかにマトモ。というかギターがあんなに弾ける人だとは正直思ってませんでした。歌もそもそもの路線がテクニックベースでない事はわかりきってたけど、そんな次元ではなく、「叫び」に近い歌いっぷりでした(実際に叫んでるって意味じゃないよ)。感情むき出し。体全体で力尽きるまで絶唱してやろうという気持ちが伝わってきて、少なくとも昔テレビでみた「王子様」感は皆無でした。

ヒット曲、強し。そしてそのヒット曲たちとの向き合い方。

本人もライヴ中に言ってましたが、大衆音楽の一部になっているんだなオザケンは、というのを痛感。これは本当に強いですね。
根っからのファン達の大合唱もさることながら、自分でさえもほとんどの過去曲は耳に馴染んでいる有様。
これって裏を返せば懐メロ大会に陥る危険性が非常に高い(し確かに最初しばらくは観ながらそんな事もちょっと考えたりした)んだけど、むしろそのヒット曲たちの存在にオザケン自身が感謝しながら大事に演奏していこうという気概がありました。要は潔かったっていう事ですかね。「懐かしいだろ?いい曲だろ?」っていう思いで一方的に連発されたら途中でウンザリしたんだろうけど、当人とバンドとお客さん全体で潔く楽しめたっていうのがよかったんだと思います。
そして、その上で披露された新曲数曲も。少なくとも個人的にそのうち一曲は、今後何らかのかたちで流通されたら末永く好きでいられるであろう名曲と感じた事は、忘れずに記しておきたいと思います*1

展開。メッセージばかりでないちゃんとしたショー。

周知の事かも知れませんが、NYに居を移していたオザケンは思想(主には資本主義批判、なのかな)に軸足を置いた活動をしていました。上に書いたような懐メロ大会よりも、むしろその「メッセージ」ばかりを打ち出した内容になりゃしないかとちょっと心配してたというのも正直なところだったんです。そりゃライヴなんだから、当人が最も強く感じているものを打ち出していくべきだと思うんだけども、それだけではこういう催しって成立しないわけです(別に曲間に太極拳コーナーを設けたルー・リードにどうたら言いたい訳ではないですよ)。んで当日は結局どういう内容になっていたかと言えば、曲間のポエトリー・リーディング(内容はいたってソフト。でも伝えたい事はしっかり現れている)、そしてその詩の内容を静かに包含したライヴ自体の展開でした。つまり、上記で危惧した2つの中間をうまいこと行っていた内容だったわけです。昔のオザケンと今のオザケン。うまいこと両面を打ち出していたんだな、と。

たぶん今回のツアー、ほんとにしっかりと準備を設けて臨んでいったんだと思います、当人も周辺の人たちも。絶対失敗させちゃいけないていう思いのもと(当たり前だけど)、どちらかに偏らせない展開をよーく練った上でショーを成り立たせたんじゃないかと思います。



・・・という感じで、非常に満足できる内容でした。部分的に王子様、部分的に40を過ぎた今の小沢健二。ちゃんと感じ取る事ができた気がしましたよ。

ただ、そんな風にしっかり成り立ってたからこそ、なんで13年も我々の前から姿を消していたのか、そこんとこの理由はやっぱりよくわかりませんでした。著作を読んでないので13年間の彼の想いは熱心なファンの人たちの方がうんとご存知だと思うので、なんとも言えませんけども、こんだけちゃんとできるなら、またこのタイミングで再度できるならもうちょっと観る機会がこれまでにあってもよかったんじゃないかなあ、、、と感じてしまったのが正直なところです。余計なお世話だと思いますけど、やっぱりこの空白の長さはいろんな穿った見方を伴うし、素直に触れる機会が(適度に)多いほうがこちらとしては嬉しい。なので満足しつつも「結局こういう展開ではじめてオザケンのライヴが観れたのは幸せだったのか?」という事も終演後に少し考えてしまいました。

あと、木暮晋也の動きが観る度に怪しくなってきててそこに視線を集中させてしまっていた、という点もなんだか重要。

*1:「時間軸を曲げて」というタイトルでした